静岡県のお茶の歴史

静岡県内のお茶の産地にまつわる話が書ければいいな・・・と思っていました。拙い文章ではありますがぽつぽつと書いていきます。
まずは最近ある必要に迫られて調べた島田市伊久美地区のお茶のお話です。

第1回 伊久美村近世茶業史−坂本藤吉(藤四郎)を中心として−

静岡市街中心部にある静岡浅間神社。その境内の池のほとりに「阪本藤吉製茶之碑」が建てられています。建立されたのは1891(明治24)年のことです。その頃の茶は日本の輸出の花形でした。そして浅間神社は当時の静岡の中心部、庶民の拠り所、憩いの場でした。東京でいえば、日比谷公園のような華やかな場所でした。その大きな石碑は人々の目を引いたことでしょう。

石碑の人物、坂本藤吉は1798(寛政10)年に駿河国志太郡伊久美に生まれています。彼の業績についてはこの碑文を読むことで大まかなことがわかります。
(右画像:阪本藤吉製茶之碑)
碑文内容

 志太郡伊久美は現在の静岡県島田市の伊久美地区になります。島田市街から大井川沿いを北上し、川口という所からは大井川に合流する伊久美川に沿って北東方向に上っていきます。いくつかの集落が点在して伊久美地区を構成しているわけですが、藤吉はその中心集落である小川(こがわ)に生まれました。

坂本家は代々の当主が村のリーダーとして活躍するような一族で、今回お話を聞くことができた坂本藤吉の親族の末裔でいらっしゃる坂本厚氏の父上やおじい様は県会議員や村長を務められていました。また特筆すべきは1615(元和元)年に坂本厚氏の先祖に当たる坂本藤右衛門が良質の茶の種子を求めに宇治まで出向き、伊久美に戻り播種したとされていることで、この事実が後の藤吉の行動の動機にも関係していると思われます。

 伊久美における製茶の歴史は近世初頭にまで遡ることができます。平地は伊久美川に沿って少しばかりあるだけの山間地であり、日当たりの悪い土地でも何とか栽培のできる茶が伊久美における主要な農産物になっていったことはいうまでもありませんでした。米のかわりに茶を売って年貢を納めなくてはならないわけですから百姓も必死です。こうして伊久美の茶はある意味必要に迫られて発展してきたともいえます。

順調に発展していった伊久美の茶業ではありますが、田沼時代になりますと茶の流通に変化があらわれます。
 1813(文化10)年、20人の茶商人が幕府から株仲間として公認されます。莫大な冥加金を上納することによって都市における特権階級になった株仲間の目的は茶の流通の独占化でした。江戸の株仲間は在方の荷主にも茶仲間の結成を要求し、在方の茶仲間から江戸の株仲間という流通経路を内荷として正規のルートとし、それ以外のルートを外荷として禁止しました。このように株仲間の出現を境に、茶価の下落は止まることはなく、生産者に大打撃を与えることになりました。

 さて、近世も時代が下りますと江戸における庶民の生活が豊かになり、嗜好品である茶の需要が高まってきます。伊久美や近郷の身成などでも茶の生産ならびに仲買をしたりして荷をまとめて自ら江戸で売るものが現れてきます。またもう少し時代が下りますと江戸の商人と取引をするものが現れてきます。藤吉もこうした在方の荷主でありました。彼も何度か江戸に行ったのでしょう。

これに対して伊久美をはじめとする駿河、遠州113カ村の茶生産者たちが株仲間や在方の茶仲間の不正を追及や茶の取引自由化を求めた訴訟が1824(文政7)年の「文政の茶一件」と呼ばれる訴訟です。この訴訟の特徴の一つに同じ茶産地の生産者たちが同じ共同体内の荷主=在方の茶仲間を訴えたことが挙げられます。在方荷主たちの一部には江戸の株仲間とともに不正を働くものがあったようですが、大概の茶仲間は生産者保護の立場を標榜していたようです。しかし標榜するに留まり、生産者保護には効果もなかったのです。

 坂本藤吉も文政の茶一件では被告となります。伊久美ではほかに百姓代の平四郎、百姓平蔵が被告となりました。訴訟の詳しい内容は割愛しますが、裁判は3年間に及び、証拠不十分として原告敗訴となりました。
 幕府の江戸経済政策の矛盾点を未熟な手法ではあったものの、地方の農民が提起した意味は大きく、1841(天保12)年に株仲間は解散させられます。茶の流通も再び自由化となりました。

 この文政の茶一件において生産者であった農民たちは従来の地元における仲買商や荷主たちとの取引だけでなく茶の流通過程全般について理解するようになりました。坂本藤吉は26歳のとき、地元の生産者たちに訴えられてしまったわけですが、その経験をもとに、流通の上で、生産者が最も優位に立てるための方策として安くたたかれる茶ではなく、高く売れる茶を作ることをめざしたのだと思います。
 当時の茶の製法は黒製や青製と呼ばれています。黒製は摘んだ茶をゆでてから蓆の上で揉み、それを日干にしたり、釜で炒ったりしたものでありました。青製は摘まれた葉を湯がいてからしぼり、蓆上で揉んでから焙炉で乾燥させたものでした。

 当時、その方法によらない茶を作っていたのは山城宇治の茶師たちでした。詳細は省略しますが1738(元文3)年には永谷宗円によって所謂宇治製法が完成されます。これは蒸気で殺青した茶を焙炉上で揉み、乾燥させる製法です。そして約100年後、天保の初期には玉露の製法が完成を見ています。

『静岡県茶業史』によれば、1836(天保7)年、出府した藤吉は宇治の清右衛門という人物に会い、宇治の製法に魅せられ、翌年宇治に向かったとあります。藤吉がここで初めて宇治製法のすばらしさを知ったというように読めますが、実は前々から宇治製法についてその良さを十分に知っていたのかもしれません。推測の域を出ませんが取引のあった江戸の茶商から宇治へ行って製法を学ぶことを示唆されたのかもしれません。当時の社会状況は江戸や大坂で打ちこわしが起こり、藤吉が宇治に出向く直前には大塩平八郎の乱が起こっています。 
 そのような状況下で何の保証もないままに宇治まで出かけるのは余ほどの覚悟が要ったと思われます。藤吉は茶生産家の善右衛門をたずね、本人を招聘しようとしましたが果たせず、その代わりに又兵衛という茶師と彼の仕事仲間数十人(茶摘みのための婦人たちを含んでいた)を招聘することに成功しました。
 伊久美に戻った藤吉は私財を擲ち、伝習所を開き、近郷の者たちとともに宇治製法を学びます。彼は宇治製法を自家秘伝の製法としないだけでなく、志太郡下の人々に自ら出掛けその製法を伝授していきます。はじめは藤吉の挙動を笑っていた地元の人々も、彼に許しを乞い、共に宇治製法を学んだようです。

 又兵衛たちから教えられた宇治製法は焙炉の下に鉄の棒が入ってはいなかったので後年開発された回転揉みやデングリなどの圧搾横転させるような揉み方はできませんでした。いわゆる揉み切り製法と呼ばれるこの製法は決して効率の良い製法ではありません。デングリ法による揉み方が開発されるのは明治の20年前後となります。
 天保8年から3年間、藤吉は又兵衛を招聘します。その間、伊久美の坂本園の茶は江戸で評判を呼ぶまでになったようです。数十人の茶師、茶摘婦を雇用し続けるのは大変なことでした。坂本家の財産は尽きてしまったようです。借財もあったと思います。史料によっては天保9年には藤吉と同じく文政の茶一件で被告になった西野平四郎が又兵衛を招聘したという記述もあります。西野平四郎は藤吉のプロジェクトのスポンサーであったと考えられます。しかし、その返済もこれからといった矢先、天保1067日藤吉は急死してしまいます。
(右下の画像は伊久美の坂本家墓石)

藤吉の死後、彼の志を継いだのは西野平四郎でした。翌天保11年、彼は又兵衛を四たび伊久美に招きます。そして翌天保12年には志太郡瀬戸谷村中里にも伝習所を開設します。そして天保5年に生まれたその息子西野平四郎は伊久美茶の3偉人、特に販売の偉人として後世に名を残すことになります。1854(安政元)年、西野平四郎は西田平次郎、西野民蔵らと共同で江戸神田白壁町に茶販売の営業所を開設します。そして横浜開港の年、1859(安政6)年にはアメリカに茶を輸出している。1880(明治13)年、平四郎は三井物産と共同でアメリカ向け直輸出を手掛けます。金融機関の必要から伊久美物産株式会社を創設するにいたります。その会社の建物は現存し、地域住民に利用されています。(下部の画像は旧伊久美物産株式会社現二俣公会堂)

藤吉の播いた種は、確実に育ち大きな実を結びます。志太郡下や近隣では藤吉が導入した宇治製法を学んだ茶師たちからその弟子たちに受け継がれ、同時にいまだ先進地であった宇治、近江、三重の茶師たちを招聘し静岡ならでは工夫がなされ、発展していきます。そして明治20年代の静岡は宇治にひけをとらない茶産地となって行きます。

静岡県における製茶手揉み技術が他府県を凌駕するまでには、多くの茶師たちの研鑽とそれを支えた各茶産地の有力者(リーダー的存在の商人・生産者)の貢献がありました。多くの人材が伊久美の伝習所から輩出されたことの意義は大きかったのです。
 伊久美の茶業史においては、茶産地としての理想を掲げたのが藤吉であり、それを具現化したのが平四郎でありました。19世紀前半における静岡県の茶産地は幕府の経済流通政策により疲弊しましたが、藤吉は文政の茶一件を経験することで、従来の茶に付加価値をつけ流通させようとしました。
 その財産を失ってまで力を注いだ一大プロジェクトは彼の死後、横浜開港と欧米人の嗜好に宇治製法の茶があったということ、つまり輸出茶のスタンダードであったという追い風もあり、静岡県茶業が明治期に外貨獲得の基幹産業と成り得た素地を創ったともいえます。
 伊久身村では1924(大正13)年、皇太子ご成婚の記念事業として「製茶元祖坂本藤吉頌徳碑」(左下画像)が伊久身村青年団によって建てられました。現在でも毎年4月下旬、伊久美では献茶式が行われ、茶業従事者たちが藤吉の墓前に献花しています。しかし、伊久美の中でさえ、藤吉や平四郎の業績について知らない人々が多くなってきているのが現状です。現在の静岡茶業界が藤吉に学ぶことの意義は重要です。
(了)

 ※坂本藤吉は1798(寛政10)年の生まれである。現存する史料において藤吉の名が最初に確認できるのは1887(明治20)105日付けの藤吉の孫、文平氏に贈られた追賞授与証で、これは彼の功績に対し農商務大臣黒田清隆が与えているものであり、これ以前のものはない。ところが藤四郎の名は茶一件の訴状や死後1856(安政3)年の史料1876(明治9)年の史料に見いだすことができる。
 つまり藤四郎は坂本家代々が(藤吉の子まで)襲名してきた名前であろう。また、伊久美では特定したい家をその家の屋号で呼ぶことが頻繁であり、本論を書くにあたり伊久美小川の坂本厚氏(坂本藤右衛門のご子孫)とご母堂にお聞きしたところ、藤吉の家の屋号は「藤四郎どん」であることが判明した。
 『島田風土記ふるさと大長伊久身』では通称藤四郎としているが筆者は幼名が「藤吉」であり、襲名後は屋号からも「藤四郎(どん)」と呼ばれたと推測する(ただし、以前伊久美地区を取材された藤栄製茶株式会社時田鉦平氏によると古老らの口からは一切「藤吉」という名前は出てこなかったとのことである)。後の明治政府が歴代の藤四郎の中から藤吉一人を彼の幼名を以って特定した。時田氏はあるいは何らかの理由で名前を変えざるを得なかったのではないだろうかとしている。